デイリー新潮のネット記事の引用です。
東大入学式でスピーチした映像作家・河瀬直美氏の祝辞が炎上しているらしいです。
僕の意見は最後に書きますが、まずはお読みください。
東京大学入学式で来賓として登壇した映像作家・河瀬直美氏の祝辞の内容が注目を集めている。テレビや新聞で取り上げられたのは以下の部分だ。
「例えば『ロシア』という国を悪者にすることは簡単である。けれどもその国の正義がウクライナの正義とぶつかり合っているのだとしたら、それを止めるにはどうすればいいのか。なぜこのようなことが起こってしまっているのか。一方的な側からの意見に左右されてものの本質を見誤ってはいないだろうか? 誤解を恐れずに言うと『悪』を存在させることで、私は安心していないだろうか?
人間は弱い生き物です。だからこそ、つながりあって、とある国家に属してその中で生かされているともいえます。そうして自分たちの国がどこかの国を侵攻する可能性があるということを自覚しておく必要があるのです。そうすることで、自らの中に自制心を持って、それを拒否することを選択したいと想います」(東京大学HPより)
最初の一文が大きくフィーチャーされたために「炎上」しているようだが、前後の文脈から見て、河瀬氏がロシアの蛮行に一分の理がある、と言いたいわけではないだろう。「絶対的な正義」や「絶対的な善(悪)」というものを設定することの弊害を指摘しているのだと推察される。なぜだかここで「自分たちの国」が侵攻されるよりも、はるかに可能性が低い「侵攻する可能性」についてのみ触れている真意はわかりづらいとはいえ。
「ロシアという国を悪者にすることは簡単」といった部分が大きくフィーチャーされたために「炎上」しているようだが、前後の文脈から見て、河瀬氏がロシアの蛮行に一分の理がある、と言いたいわけではないだろう
これは別に斬新な考え方ではなく、「価値相対主義」などと呼ばれる思考法に近いものである。「この世に絶対、なんてものはない。そのような考え方が独善性を生んでしまうのだ」
「正義などというものは、立場によって変わるものだ」
思春期に一度はこの種のリクツにしびれたり、かぶれたりした覚えがある人も少なからずいることだろう。「中二病」の症状のうちに含まれるかもしれない。
河瀬氏が仕事としている映画の世界でもこうしたものの見方がテーマとなっている作品は珍しくない。
最近でいえば「ジョーカー」(2019年)が好例だ。これまでバットマンの敵役、悪の化身のように描かれていたジョーカーの誕生までを描いた作品を観た観客は、善悪を簡単に決めることの難しさを思い知らされる。映画に限らず、マンガであってもこのような視点を盛り込んだ作品は多く存在している。
その意味で、河瀬氏のメッセージは東大生にとって理解しづらいものではない。むしろ東大に入る若者ならばとっくに一度は触れたタイプの考え方である可能性が高い。
ではロシアの行為を「悪だ」と断じることは知的な行為ではないのか。「絶対などというものは存在しない」「それぞれの正義がある」ということは論理的には正しいかもしれない。しかし……。
こうした問題を考える際に、「論理の限界」の重要性を説いたのが数学者の藤原正彦氏だ。言うまでもなく数学の世界は論理を徹底的に重視する。ところが、藤原氏はベストセラー『国家の品格』の中で次のように述べている。
「論理的に得られた結論は盤石ではないのです」
「人間にとって最も重要なことの多くが、論理的に説明できないということです」
河瀬氏の祝辞を補完する意味も込めて、以下、『国家の品格』をもとに同書から抜粋・引用しながらその真意を見てみよう(引用はすべて第2章「『論理』だけでは世界が破綻する」より)。
藤原氏は、こう述べる。
「もし、人間にとって最も重要なことが、すべて論理で説明できるならば、論理だけを教えていれば事足りそうです。ところがそうではない。論理的には説明できないけれども、非常に重要なことというのが山ほどあります」
論理だけで構築されているような数学の世界でも、実は「正しいか正しくないかを論理的に判定できない命題が存在する」ということが証明されている。1931年、オーストリアの数学者クルト・ゲーデルが証明した「不完全性定理」がそれである。
この定理は、数学にとどまらず、当時、哲学などにも大きなインパクトを与えた。いくら論理を突き詰めていっても「正しさ」を決めることができない場合がある、というのはそれまでの考え方とは異なるものだったからだ。
ここで藤原氏が取り上げたのが、「なぜ人を殺してはいけないのか」という有名な問いである。以前、日教組の教研集会で、傍聴していた高校生が会の最後の方になって、「先生、なんで人を殺しちゃいけないんですか」と質問した。しかし、そこにいた先生たちは、誰一人それを「論理的に」説明できなかった。
論理をもてあそべば、「殺してもいい理由」も「殺してはいけない理由」も挙げることは難しくない。しかし、論理で絶対の正解を導くことは極めて難しい。
「あなたが殺されるのは嫌でしょう」と言われても「そうだけど、今言っているのは他人を殺すことです」とリクツを返すことも可能だ。
だからこそ先生たちも言葉に詰まってしまった。
これに対して、藤原氏はこう言い切る。
「人を殺していけないのは、『駄目だから駄目』ということに尽きます。『以上、終わり』です。論理ではありません。このように、もっとも明らかのように見えることですら、論理的には説明できないのです」
続けて藤原氏は、会津藩の教えを例に取る。江戸時代、会津藩の藩校には「什(じゅう)の掟(おきて)」というのがあった。「虚言を言うことはなりませぬ」「卑怯な振る舞いをしてはなりませぬ」「弱い者をいじめてはなりませぬ」等々。
この掟を結ぶ言葉は、
「ならぬことはならぬものです」
だったという。
「要するにこれは『問答無用』『いけないことはいけない』と言っている。これが最も重要です。すべてを論理で説明しようとすることはできない。だからこそ、『ならぬことはならぬものです』と、価値観を押しつけたのです」
それでは古い価値観の押しつけになるではないか、という反発は当然予想される。これに対して藤原氏はこう説く。
「本当に重要なことは、親や先生が幼いうちから押しつけないといけません。たいていの場合、説明など不要です。頭ごなしに押しつけてよい。もちろん子供は、反発したり、後になって別の新しい価値観を見出すかもしれません。それはそれでよい。初めに何かの基準を与えないと、子供としては動きがとれないのです。
野に咲くスミレが美しいということは論理で説明できない。モーツァルトが美しいということも論理では説明できない。しかし、それは現実に美しい。卑怯がいけない、ということすら論理では説明できない。要するに、重要なことの多くが、論理では説明できません。
戦後の我が国の学校では、論理的に説明できることだけを教えるようになりました。戦前、『天皇は現人神(あらひとがみ)』とか『鬼畜米英』とか、非論理的なことを教えすぎた反省からです。しかし反省しすぎた結果、もっとも大切なことがすっぽり欠落してしまったのです」
藤原氏は「論理を軽視せよ」と言っているわけではない。ただ論理に溺れることのバカらしさ、危うさを指摘しているのだ。『国家の品格』のこの部分は当時、多くの共感を呼んだという。
河瀬氏の属する映画界で次々明るみに出ている性犯罪、性暴力に対して、映画監督や作家らがさまざまな形で怒りの声を上げている。法的には「推定無罪」なので加害者側とされる側の「正義」に思いを馳せたり、言い分に耳を傾けたりすることは、「論理的」に取り得るアプローチなのだが、「ならぬことはならぬ」という気持ちが先にあるからこその行動だろう。
河瀬氏の東大生に向けてのメッセージは次のことばで締められている。
「どこまでも美しいこの世界を自由に生きることの苦悩と魅力を存分に楽しんでください」
自らの明るい未来だけではなく、その「美しい世界」が破壊されている人に思いを馳せることもまた新東大生には求められているのだろう。
「ウクライナにもロシアにも正義がある」「絶対的な悪なんか決められない」式の思考法をもとに今回の戦争を論じ始めれば、「侵略されるのも意味がある」「強制連行が悪いとはいえない」「破壊された街もまた美しい」等々、いくらでもおかしなリクツをひねり出すことが可能になってしまう。それは決して知的な行為ではないのではないか。
河瀬氏はロシア一国を悪者にしてウクライナの立場だけで物事を判断しちゃだめだよと言ってるので、ごく当たり前のことだと思うんですよね。
炎上する理由がわかりませんが、コラムに書かれている通り、短絡的な人が「ロシアは悪じゃないか! 何言ってんだ!」と怒ったのでしょうね。
逆に言えば、ウクライナ一国を悪にしてロシアの立場だけで物事を判断しちゃだめだよという意味でもあります。
ただ、世の中は「ロシア悪」と見てる人が圧倒的に多いので、ロシア一国を悪にしていいのかと問題提起したのでしょう。
別に、どっちが悪だと決めつけてないわけで、これは僕も同じ立場です。
世の中は是々非々だと思いますが、そういう思考ができない偏った人たちもいるから東大生よ気をつけよ、って言ってるのだと思います。
途中、デイリー新潮のライターさんが、悪とは何かと哲学を始めたら、どんな悪でも肯定できてしまうリクツをひねり出すことが可能だとして、こういう思考を中二病などと言ってますが、これもその通りですね。ただ「中二病」という言葉のチョイスが激しくゲスいレッテル貼りの意図が見え見えで説得力を激減させているのが残念です。苦笑
確かにSNSでよく見ましたよ。「善悪は立場によって変わるものだ!なにが善だ、けしからん!」みたいなこと言ってる人とか。
「強すぎる正義、偏った正義感は破壊をもたらすのだ!」なんて上から目線で言ってる人もいましたよね。
このコラムを読んで僕もそんな人たちを「中二病」と言いたくなりましたけども。
いや、中二病は冗談ですが、これはつまり「んなこと当たり前だわ!」って意味です。
それ言ったら、なんでもありなんですよ。
あ、ていうか前提として世の中なんて何でもありなんですけどね。
それを言っておかないといけないので、ちょっと角度を変えましょう。
例として、神が許していることと、神が禁止していることをひとつづつ挙げてみましょう。
神が許してること:人を殺すこと(戦争)
神が禁止していること:人間が道具なしに空を飛ぶこと
神様は人を殺しても良いけど、人間は自らのチカラだけで空を飛ぶなと定めたのです。
なんでやねん!?笑
何でかって言われても、実際に戦争は神が許しているから、今そこにあるわけです。
神が許さなかったら、どうやってでも人間は戦争を起こせないはずで、存在すらないはずです。
一方で人間は、どうやっても、素の状態で空を飛べませんよね。
それを神が許してないからです。
ある意味、神はかなりの自由を人間に与えているわけです。
だからこそ、善と悪なんてなんでもありで、どうにでも組み立てることができるのです。
戦争を「善」であるという理屈をこねるのは簡単なことなのです。
神でさえ許してるんだから。
でも、それじゃダメだってことで、このコラムの著者は数学者の藤原正彦氏の著書を引用して、大事なことは論理じゃ説明できないものだと言ってます。
つまり、「悪いことは悪い!」で押し通せって言っています。
じゃないと知的でないとも言ってます。
そんなバカな。それは言いすぎだろ。苦笑
でも、それも確かに、まあ、およそ、その通りですね。。
ていうか、それって一種の「決め」だからです。
ビジネスでよく出てきますよね、「決めの問題」、まさにそれ、です。
悪いことは悪いって決めたから悪いのです。
人を殺したらダメ!
それを正義と決めたから正義なのです。
人を殺したらダメ!って決めてるだけです。
その大前提のルールがあるから、「戦争はダメ」と帰結するのです。
さすがにさ、「人を殺すなというのは、お前だけの正義だ!」っていうやつはいないでしょ?
と思ったら、今起こってる戦争についてネットにはそう言ってるやつがワンサカいるんだよね。
怖い世の中でしょ?笑
僕は、こういうわけわからん論争はあまり好きでなくて。
やっぱり、人間がやっちゃダメなことを決めるなら、感情を指標にするべきだと思いますよ。
本能と言ってもいいかもしれません。
「殺す」=「ナイフで刺す」 > 「鉄砲で撃つ」 > 「痛い」
痛いって皮膚感覚、味わいたいですか?
本能的に嫌ですよね。
「軍隊がやってくる」=「殺される」 = 「怖い・恐怖」
怖い、恐怖の感情って味わいたいですか?
嫌ですよね。
この感情が長く続くと人間はストレスで病気になるって言われてますしね。
本来の生物のあり方に反しているってことです。
長年一緒にいた愛すべき家族が何者かに殺された。
それ、嬉しいですか?
二度と会えなくなる、寂しい、相手に恨みの感情もつのるし、味わいたくない感情ばかりですよね。
人を殺しました。
当然、殺した人の家族が怒りを向けてきますが、それって嬉しいですか?
恨まれることって嬉しくないですよね、味わいたくないです。
と、この辺から考えていけば答えが出ますよね?
ベースの基本的な正義のラインは決まりますよね。
単純な話じゃないですかね。
ただ悪いことを「悪いから悪い」と非論理的に決めるのは知的でも何でもないです。
「大事なことは論理的でないことが多い」ってのは、少々おかしなモノの見方だと思いますね。
感情や本能を前提に、決めればいいと思いますよ。
それが一番わかりやすいと思うんですよ。
分かりやすいってことは、非論理でなく、ちゃんと論理的でもあるってことです。
今の世の中は「悪いもんは悪い!」「これが正義だ!」と堂々と言えないように仕向けられた世の中です。
僕はそれを前々から言ってますが、多くの人がそれに早く気がついかないとだめです。
何が悪いかわかんない、正義って言うとバカにされる、おかしな世の中だけど、変な人と思われたくないから黙って戦争に行きます。
いやあ、行ってみたらやっぱ戦争は地獄だったよ。
と地獄で語ることになるのは嫌でしょ?